父親はセックス依存症の娘を愛し続けられるか

愛するって、一体どういうことだろう。


人間は酷く醜いものだ。
所詮は霊長類とかいう獣に過ぎない。
知能指数が高いだけの動物に過ぎない。

人間と言うものは、
快活で、情け深くて、陽気で、優しくて、剛毅で、清廉で、
英知に富み、助け合い、喜びを分かち、ひたむきで、謙虚で、

狡くて、卑怯で、陰湿で、弱気で、臆病で、淫猥で、嫉妬深く、愚鈍で、
吝嗇で、騙し、盗み、奪い、虐げ、傲慢で、狭量で――

およそ両極端な性質を持っている。
だから、人の世に在っては清濁併せ呑むほか道は無い。


「人間は高尚で、間違いを犯さず清く正しく生きている(べきだ)」
なんてことを信じているのは、
進化論や科学を丸ごと否定して、神を信奉する宗教家たち。
もしくは、世間知らずの理想主義者くらいなものだ。

 

 

さて。人間は美しくもあり、汚らわしくもある。

可愛いあの娘だってゲロを吐くし、陰茎を咥えもする。
目に入れても痛くない息子は、教室で弱者を嬲って喜ぶ。
貧困に喘ぐ子供たちを救う司祭が、男児性的虐待をする。

綺麗なだけの人間はどこを探しても居ない。
絶対に悪いことをする。間違える。

さあ、問題はここだ。どこまで相手を愛していられるだろうか?


淫売にふける娘を受け入れられるだろうか。
幼児を激しく殴って笑う息子を抱きしめられるだろうか。
むしゃくしゃして人を刺殺した弟を好きでいられるだろうか。
酒酔い運転で轢殺を起こした父親を大事に想えるだろうか。
不倫をして出て行った母親を大切に想えるだろうか。


僕は思う。
それで嫌いになるのなら、最初から愛してなどいなかったのだと。

これは何も「どんな相手だろうと家族は大事にしろ」とか
「一度好きになったなら気持ちを曲げるな」とかいう、
思考停止した頭の悪い主張をするためのものではない。

嫌いなものは嫌いだ。
感情は無意識・自発的なもので、操作することはできない。
抑えつけても、どこかで必ず異常をきたす。

針で刺されて「痛みを感じるな」と言われても
痛いものは痛いのだ。
嫌いになったとて、責められてたまるものか。


だが、それを承知の上で言っている。
相手の振る舞いによって嫌いになるなら、
最初から愛してなどいなかったのだと言っている。


"愛する"というのは、もっと切羽詰ったものだ。
"好き"とは違い、もっと腰を据えて重みを感じるものだ。
相手が何者であったとしても
全て丸ごと受け止めてやる覚悟を持った感情だ。

良い部分だけ見て、触れて、「愛してる」とほざくのは、
全くもって自分勝手な振る舞いだ。
自分が好む面だけを"愛する"相手に押し付ける蛮行だ。

"愛する"相手の恥部が露見した時に「裏切られた」と言うのは
厚顔無恥も甚だしい。言語道断だ。自分勝手が極まっている。
「裏切られた」が意味するところは、
「俺の理想に付き合え」ということだ。
「俺が愛しているのだから良い所だけを見せろ」ということだ。

馬鹿め。
人間という生き物をなんだと思っているのか。
そう言う自分は立派で価値ある大丈夫とでも勘違いしているのか。

 


僕は思う。愛するというのは
「私があなたを愛するのは、あなたがあなただからです」と
そう断言できるものであると。

人は間違いを犯す。迷う。愚かで醜い。
大前提だ。

だから、どんな過ちをしたとて、
"その人がその人である"ことに変わりはない。
本質は一切変わっていない。
最初から、そうやって惑う人間だったのだ。
魂だか何だかは知らないが、中心の所は不動なのだ。
悪い処を全部ひっくるめて、その人である訳だ。


腐った部分もひっくるめて、その人を好きでいること。
これが「愛している」ということだ。

 


相手の悪い面が知れた時こそ、愛が試される瞬間だと思う。

果たして受け入れられるか?
理解できるか?
助けてやれるか?

肝心要はそこだろう。


相手の感情や背景を理解し、共に悩み、励まし、手を取り、助け、
清濁併せて一緒に歩いてやる。心の平安を願い、安逸を望む。

これが愛するということだ。


理想を押し付け、清く正しく歩かせることではない。
美食を与え、愛でて、おだてることでは決してない。

利己的な自己満足がしたいなら愛玩動物で我慢しろ。
他人を巻き込むな。

 

 

愛は形にすることができない。これは苦しいことだ。
愛しくて思い煩うほどに、
「どれだけ愛しているかを形にできたら良いのに」と
苛立ちを覚えずには居られない。


愛の大きさを証明できるのは、
如何なる汚れであろうとも真に受け入れて見せた時だけだ。

受け入れたモノが醜ければ醜い程
大きな大きな愛を示したと言えるだろう。