自分の弱さを認める、という言葉の意味

「自分の弱さを認めて、初めて人は成長できる」
多くの人が、このフレーズを耳にしたことがあると思う。
でも人々は、この言葉の意味を正しく理解できているだろうか。

少なくとも、僕自身は理解できていなかったと思う。

 


僕は「自分はダメな奴だ」と認めるから、
「変えなければいけない」と考えて、「成長したい」と思っていた。

……さて、一見すれば正論を述べているように見えるが、
この考えには、欠けているものがある。


『他人に対して弱さを認めること』だ。

 


自分の弱さを認め、成長を求めるところまでは良かった。
でも僕は、その『弱さ』をコンプレックスにしてしまった。
そして「ダメな自分を知られたくない」と考えるようになった。

こうなってしまうと、目的がすり替わってしまう。
『成長』を求めている筈が、『他人からダメだと思われたくない』になる。

言わば、コンプレックスを隠すために、成長を求めている形だ。
しかも、ここには大きな落とし穴がある。
コンプレックスは『成長』では解消できないのだ。


コンプレックスとは、自分に対するイメージである。
例えば、幼少期に「笑顔が不細工」と言われた人は、笑わなくなる。
無表情を保つようになる。人との関わりを避けるようになる。

他の人が「そんなことはない、普通だ」と言ったところで受け入れない。
「自分の笑顔は不細工なんだ」と思い込んでしまっている。
鏡の前で笑顔の練習をしても、綺麗な笑い方を本で調べて研究しても、
コンプレックスが解消されることはない。

コンプレックスを解消するには絶対的な証拠が必要になるのだ。
トップレベルの、100人中100人が肯定できるほどの証拠が。
(ただし、その絶対評価は本人の主観で下される)

容姿にコンプレックスを持つ人は、恐らく整形するだろう。
場合によっては不自然な顔になるまで改造する。
完璧な美人になれるまで、整形を続ける。

 


コンプレックスを『成長』や努力によって解決することは、殆ど不可能だ。
それなのに「何とかしてダメな自分を変えなければ!」と頑張ろうとする。
すると、どうなるだろうか?

絶望するしかなくなるのだ。

後は、取り繕って誤魔化したり、他人に言い訳をしたりするしかない。


色々と努力はしただろうから、事実として『成長』しているのだが、
納得することは出来ない。ダメだと思い込んでいるから。


容姿ならば整形ができるから、一応の解決を図ることは可能だ。
だけど学力は?対人能力は?問題解決スキルは?

打つ手は存在しない。

どうしようもなくなって「自分はダメなヤツなんだ」と
憂鬱な気持ちで沈み込むしかなくなってしまう。

 


自分の弱さを自分自身で認めていようとも、
弱さを恥じて、コンプレックスにしてしまうと、
本当の意味での『成長』はできなくなる。

コンプレックスは、解消されない。
弱さをコンプレックスにしていては、いつまで経っても抜け出せない。

自分の弱さを、シンプルに『自分の弱さ』として他人に対して認めることで
ようやくフラットな状態になれる。


本当の意味での『成長』が始まるのは、そこからだ。

人生の悩みを整理しようと思ったらバカ長くなった話

「上手く人付き合いが出来ないなあ」と、思い続けて20年。
対人不安を患った期間で言えば30年は経つのだが、
その原因を、ようやく具体的に言語化し、
筋道立てて説明できるようになったので書いてみる。

仔細を述べる前に、ひとまず原因だけ抜き出して言うと
『「自分の存在は恥だから、本当の自分を知られてはいけない」という思い込み』
これだ。

まあ、早い話が自己否定だ。

 


今までは漠然と
「他人が怖い」だとか「どう思われるか分からないから不安」だとか
「本当の自分を晒せない」だとか「どうして人の輪に入れないんだろう」とか
「変に思われたら」「馬鹿にされたら」「失敗したら」「笑われたら」etc.
不安な思考を散らしていただけだった。

いちおう断っておくが、対人不安を言い訳にして諦めたりはしなかった。
友達は殆ど居なかったが、登校拒否するでもなく
人付き合いから逃げる訳でもなく、就職を拒むわけでもなく、
いっぱしの、当たり前の、世間一般の普通の人として、
義務として、社会生活に馴染むように努めてきた。

「普通になりたい」
「頑張れば、いつか達成できる」
「苦しくても努力すれば、変われる」

そう思って生きてきた。

『今はダメでも頑張れば成功する』
『成功しないのは努力が足りないからだ』
これが一般論だろう。社会的な常識だろう。

でも、この考え方が通用しないことがある。
それは自己否定をしている時だ。


普通、人の成長というものは、足りない自分に何かを足していく行為だ。
自分自身を抹殺して一から作り上げる行為などでは、決してない。


「足りない自分が嫌だから、そこから抜け出したい」のなら
成長の機会だ。大いに努めれば良い。

だけど「自分自身が嫌だから、違う何者かになりたい」というのは
自殺の機会だ。絶対にやめた方が良い。

 


当たり前のことを言うが、人間は生き物だ。
工場で作られた機械ではない。
肉体も、容姿も、精神も、思考も、趣向も、能力も、
なにもかもがアンバランスで不格好で形の整わないものだ。
どんなに嫌で否定したって、それが自分自身だ。

可愛い女の子を見て「乱暴したい」と思わず考えてしまい、
自分を恥ずかしく感じたとしても、それが自分の持っている思考回路だ。

針で刺されたら痛い。
不細工なツラを見たら不快になる。
同性愛者を気持ち悪いと感じる。

全部同じだ。無意識で自然な反応だ。

「ああ、こんな反応をしてしまうなんて、自分はダメな奴だ」
そう思ったって、それが正常な"自分の反応"なんだ。

 


けれど僕は、それらを否定してきた。
自分の趣味も、思考も、容姿も、能力も、全部否定した。
小学生の頃か、もしかすると幼稚園の頃からそうだった。

活動的で、人当たりが良く、優しく、社交的で、面白くて、平等で、
頭が良く、明るく、眉目秀麗で、大人びていて落ち着きがあり、
知識が豊富で、はきはきとして、とにかく立派でなくてはならないと思っていた。

まさしく理想の人物像である。
理想通りであることを義務のように思っていて、
「理想通りの人間じゃない自分はダメな奴だ」と信じていた。
一介の小学生で"そのままの自分"ではいけなかった。

勿論、こんな理想は実現不可能だ。
でも、実現させなくてはならないと思っていた。
だったら、どうするか?
「ダメな自分を知られないように、大人しくしている」しかない。

結果、人と喋らない、消極的な子供になった。
チャレンジしたとき、必ず成功しなければならないのだから、当然だ。

みんなが談笑しているのを見て、自分はダメだと思う。
みんなが活発に運動しているのを見て、自分はダメだと思う。
仲間に入れない、話すことができない、怖いと、そう思い続けた。


僕は小・中学生の頃、一番背が高く、体格も丈夫で、容姿も悪くはなかった。
走れば一番早いし、歌だって得意だ。成績は普通だが苦手な科目もないし、
高校で文理判定をした時も、丁度半々だった。バランスは取れている。
センター試験も、全部8~9割だった。
家庭も裕福な方で、不足しているものは何もなかった。

でも、ダメだった。自分が恥ずかしくて仕方がなかった。

 


ところで、この『理想通りの人物像』を追っていたのは、
なにも自尊心がそうさせた訳ではなくて、
単純に、親の、大人の言うことを聞いていただけである。

ご存知の通り、大人はすぐに理想論を子供に語る。
「考えが甘い」とか「それでは世間で通用しない」とか
「明るく元気にしろ」とか、何かと子供に言って聞かせる訳だ。

言われて「うん」とは言わない程度に天邪鬼ではあったけれど、
「そうしなければならない」と強迫観念に駆られるくらいには
親の、大人の言うことに従順であった。
(たぶん「大人の言う通りにしないと恐ろしい目に遭う」と感じていたのだろう)


成長するにつれ、自分は"理想像"から一層遠ざかった。
本は読まないし、スポーツ万能ではないし、気は弱いし、成績優秀ではないし。
とにかく憂鬱だった。ひたすら目立たないようにしていた。
小学校5年生か6年生くらいの時には、クラスメイトに
うつ病なのかと思っていた」と言われた(当時は意味が分からなかった)

妹の影響で、マンガとかアニメに没頭していった。
いわゆるオタクである。
最近でこそクールジャパンだとか、市民権を得た様子だが
当時は、特に根暗でマニアックな趣味だ。
しかも僕の場合、どちらかと言えば萌え系(死語)が好きだったので
尚更、恥ずかしかった。

「無駄遣いしてはダメ」だと教えられていたので、
VHSだの専門書だのを買い漁ることもなく、淡々と放映されるアニメを見ていた。
だから、マンガの単行本を買うこともなかった。
(そもそも外出すること自体が怖かったのだが)

テレビゲームは子供たちの間で流行っていたので、買って遊ぶことが出来た。
学校から帰るなり延々とプレイしていた。
ただ今になって思うと、ゲームはそれほど好きではなかった。
現代で言えば、手持無沙汰な時にスマホゲーを楽しむのと同じ感覚だと思う。
なんとなく楽しいから、ゲームで時間を潰していただけだ。


高校生にもなれば、優秀な生徒ならゲームもあまりしない。
部活なり、恋愛なり、友情なり、有意義な時間の使い方をする。
でも、僕は相変わらず、オタク文化から離れられずに居た。
"まとも"じゃない自分を嫌って、自己否定が悪化した。

極めつけには、アニメのキャラクターを本気で好きになった。
心の底から愛してしまった。行くところまで行っていた。

それで完全に現実世界から離脱したかというと、そうではなかった。
物事は単純に進まなかった。
本気で二次元のキャラクターを好きになったことをキッカケにして、
むしろ現実へ回帰した。社会で求められる理想像へ向けて再出発した。

「誰かを心から好きになる」ことは同時に、
愛を求めることでもある。つまり「愛してほしい」と思い始めた訳だ。
でも、どれだけ虚構の存在を愛そうとも、何も返ってこない。
ただ独りで居るだけ。ケンカもできない。それが酷く悲しかった。

「誰かに愛してほしい」と思ったから、現実社会に溶け込もうとした。
「他人に受け入れてもらえる人間になろう」と思った。

つまり、"無意識の自己否定"に"意識的な自己否定"を加えた。

「今の自分はろくでもないから、普通の人に変わろう」と考えた。

普通の人はアニメを見ない。
普通の人はオシャレをする。
普通の人はスポーツをする。
普通の人は夢を持っている。
普通の人は……

何が正解かを、とにかく考え続けた。
自分の趣味や感情を非難しながら、普通へと修正した。
これを20年近く続けた。

自分のことを恥ずかしいと思っていた。
臆病な性格を、オタク趣味を、少ない人生経験を、
コミュニケーション能力を、運動神経を。

いわゆるコンプレックス。何もかも恥ずかしかった。

人格と、人生を否定していた。
人格を知られてはいけないと思っていた。
人生を知られてはいけないと思っていた。

もし知られたら、馬鹿にされ、否定され、非難され、攻撃され、
とても辛く酷い目に遭うと思っていた。

だから、全部覆い隠そうとした。
自分じゃない何者かになりたかった。


大学ではあまり友達が出来なかったけど、それなりに過ごせた。
就職もできた。会社の同期と遊びに出かけたりした。結婚もできた。

それで、実家の会社に入って、役職なんかにも付けてもらって――ある日

「あ、ダメなんだ」と思った。

対人上の不具合は、自分には直せないんだと思った。
だから辞めることにした。

それまでは「頑張れば何とかなる」と考え、メンタルクリニックに通ったりした。
「人とうまく付き合いない」とか「人が怖い」などと相談していた。
でも、色々あって限界に達した。

だって、社会人3年目とかじゃないんだ。
10年続けても、これなんだ。


今になって思えば、人が怖いのも、うまく付き合えないのも
当たり前のことだった。

考えてほしい。
「自分の本性を知られたら恐ろしいことになる」と
思いながら人と接する時、果たして平静を保てるだろうか。
常に綱渡りをしているような心境だ。
ただ隠すだけなら良いが、露見したら恐ろしいことになるのだ。
しかも、自分の本音を隠しつつ、"正しい反応"を考える必要がある。
これは並の緊張感ではない。


「誰だって人と話すときは緊張するものだ」と人は言う。

そりゃあそうだろう。多少の神経は使う。
失言があったら大変だ、と思うこともあるだろう。
でも、それで"恐怖"に駆られて、脇汗を流しながら喋るのか?
(そういう人は、僕と同じく対人恐怖症の人だ)


自分を装い、取り繕って本音隠したままでは、人と打ち解けることは難しい。
身を護ることばかりに必死で、視界が狭くなり、神経が擦り減っていく。

営業だとか、社交の場だとか、社内の人間関係だとか、全部怖かった。
なんとかしようと努めた。でも、いつも違和感や距離を感じていた。
取り繕ってるんだから、当然だった。

でも、もう、本音も、自分が思っていることも、自分の感情も、
何も分からなくなっていた。
自分は『正しい行動を選択する人』でしかなかった。

 


会社を休み始めてから、メンタルクリニックの担当が変わった。
最初にしたのは、自分の感情に気付くトレーニングからだ。

「合ってますか」とか「正しいですか」とか
「社会的にはこうだと思います」とか、
そんなことばかり言って、自分の主張が浮かばなかった。

 


……それから結構な時間が経ったのだけれど、
最近になって、ようやく対人恐怖症の原因を言語化して説明出来るようになった訳だ。

今は、自分の人格を否定せず、こういう人間なのだと
素直に受け入れることを心掛けている。敢えて遠ざけていたアニメなんかを観始めた。


だが、自己開示は相変わらず怖い。
否定されるイメージが残っていて、無意識の恐怖心は簡単には消えない。

暗所恐怖症も、高所恐怖症も、嘔吐恐怖症も、どんな恐怖症も無意識の感情から
発しているのだから理屈で詰めたって、どうにもならないのだ。

それに、これまで築いてきた人間関係は、自分を偽って築いたものが多いため
"ある程度"素直な自分として接するのに、多少の抵抗が残る。

(こういう人だろうな、と見当を付けられていそうだが) 


紆余曲折している間に、
人さまに胸を張って言えるような人生を過ごすことは
どうにも難しくなってしまった。
でも、あのまま自己否定に拘泥して欝々と生きていても
結局悲嘆に暮れながら死ぬ他なかったと思うので、
これはこれで、仕方がなかったとも思うわけです。


思い込みが消えたら、少しは人との交流を楽しめるようになるだろうか。
それはまだ、よく分からないし、人付き合いは好きではない。

文明の発展は人間を不幸にするばかりだ

僕は「互いに平等で、共に気遣い合う世界」が好きだ。
優しくて温かい世界が好きだ。

だけど、そんな世界は在りはしない。
有り得る筈がない。

人間は所詮動物で、社会は巨大な猿山でしかない。
上下関係がある。カースト制度がある。
"高い地位"とやらの人が威張る。
"優越的地位"の人が威張る。

上司は偉ぶり、
人気者は好き勝手に放言し、
お客様が、俺は神様だと踏ん反り返る。

社会の縮図と呼ばれる学校では、
子供たちがカーストの中で日々神経をすり減らしている。

相対的に"社会的地位"が低ければ、まるで非人の扱いをされる。
僕はそれが、憎くて憎くて仕方がない。


突然だが、僕は中小企業の息子という分かりやすいポジションに居る。
容姿も褒められることが多いし、身体的にも恵まれている方だ。
妻は真面目で可愛らしい。
クラスメイトたちよりは裕福な家庭で育ったし、
出身大学は国立で、偏差値は70は越えている。

何が言いたいかって、
「偉そうな輩を憎むのはルサンチマンが原因ではない」ということだ。
「僕が奴らを嫌うのは、僕の(甘ったれた)思想が原因だ」ということだ。

僕の本質が人間の本能を嫌っていて、
僕の思想と人間社会は、根本的に反りが合わない、ということだ。


だが、反りが合おうと合わなかろうと関係ない。
世の中の現実として、弱者は淘汰され、強者は肥え太る。

どだい世界は平和なんかじゃない。
ある程度の規模で争わないように合意しているに過ぎない。
交渉するに足る力が無い民族たちは、毎日迫害され、虐殺されている。

人間は動物だ。
だから力を基準にして優劣が生じるのは自然なことだ。
強くなければ殺される。弱ければ抵抗できない。

争わなければならない。競争しなければならない。
どこまで発展したって、競争社会は変わらない。
それが人間の動物としての本能だ。
勝たなければ死んで――殺されてしまうから。

だから発展するほどに、競争はより苛烈となっていく。

 


本当に浅ましい。反吐が出る。

人間を崇高だと思っている輩は狂人だ。
現実を見る眼を持たない、理想郷の住人だ。


発展とは何だろうか。
富国強兵。ごもっともだ。競争力が無ければ、いずれ滅亡する。

だが、それだけか。目指すのは強さだけか。
人間としての、文化的な発展を望まないのか。
殺意ばかり高めて満足か。


僕は馬鹿な夢想家だ。現実を拒絶してばかりいる。
人間の本能を忌み嫌って苦しんでいる。

でも、どうして、こんなに文明が発展しても
優しさだとか、思いやりだとか、
温かいものを"人としての価値"の基準に出来ないのだろうか。
夢想だろうがなんだろうが、悲しいと思わないのだろうか。


資本主義では、"経済的価値"が基準になっている。
おかげで、うわべの印象操作技術が流行して、
デール・カーネギーなんかが、もてはやされたりする。

虚しいことだ。哀しいことだ。

欲望を刺激するための、マーケティングと言う名の興奮剤。
フィリップコトラーは悪魔と呼ばれるべきじゃないのか。

資本主義では、人々の"社会地位"を数値化し、明確にする。
勝ち組と負け組を明らかにする。強者と弱者の線引きをする。

みんなが平等に成功するチャンスを得られると言うが、
所詮は"経済的価値"の選別システムでしかないし、しかも
それが序列に直結している。

こんなものは、人間の動物的本能を強化するだけだ。
猿山を強固にするだけのものだ。

 


人として堕ちるために文明が発展するならば、
我々は地を掘り、煉獄へ突き進んでいるのだろう。

父親はセックス依存症の娘を愛し続けられるか

愛するって、一体どういうことだろう。


人間は酷く醜いものだ。
所詮は霊長類とかいう獣に過ぎない。
知能指数が高いだけの動物に過ぎない。

人間と言うものは、
快活で、情け深くて、陽気で、優しくて、剛毅で、清廉で、
英知に富み、助け合い、喜びを分かち、ひたむきで、謙虚で、

狡くて、卑怯で、陰湿で、弱気で、臆病で、淫猥で、嫉妬深く、愚鈍で、
吝嗇で、騙し、盗み、奪い、虐げ、傲慢で、狭量で――

およそ両極端な性質を持っている。
だから、人の世に在っては清濁併せ呑むほか道は無い。


「人間は高尚で、間違いを犯さず清く正しく生きている(べきだ)」
なんてことを信じているのは、
進化論や科学を丸ごと否定して、神を信奉する宗教家たち。
もしくは、世間知らずの理想主義者くらいなものだ。

 

 

さて。人間は美しくもあり、汚らわしくもある。

可愛いあの娘だってゲロを吐くし、陰茎を咥えもする。
目に入れても痛くない息子は、教室で弱者を嬲って喜ぶ。
貧困に喘ぐ子供たちを救う司祭が、男児性的虐待をする。

綺麗なだけの人間はどこを探しても居ない。
絶対に悪いことをする。間違える。

さあ、問題はここだ。どこまで相手を愛していられるだろうか?


淫売にふける娘を受け入れられるだろうか。
幼児を激しく殴って笑う息子を抱きしめられるだろうか。
むしゃくしゃして人を刺殺した弟を好きでいられるだろうか。
酒酔い運転で轢殺を起こした父親を大事に想えるだろうか。
不倫をして出て行った母親を大切に想えるだろうか。


僕は思う。
それで嫌いになるのなら、最初から愛してなどいなかったのだと。

これは何も「どんな相手だろうと家族は大事にしろ」とか
「一度好きになったなら気持ちを曲げるな」とかいう、
思考停止した頭の悪い主張をするためのものではない。

嫌いなものは嫌いだ。
感情は無意識・自発的なもので、操作することはできない。
抑えつけても、どこかで必ず異常をきたす。

針で刺されて「痛みを感じるな」と言われても
痛いものは痛いのだ。
嫌いになったとて、責められてたまるものか。


だが、それを承知の上で言っている。
相手の振る舞いによって嫌いになるなら、
最初から愛してなどいなかったのだと言っている。


"愛する"というのは、もっと切羽詰ったものだ。
"好き"とは違い、もっと腰を据えて重みを感じるものだ。
相手が何者であったとしても
全て丸ごと受け止めてやる覚悟を持った感情だ。

良い部分だけ見て、触れて、「愛してる」とほざくのは、
全くもって自分勝手な振る舞いだ。
自分が好む面だけを"愛する"相手に押し付ける蛮行だ。

"愛する"相手の恥部が露見した時に「裏切られた」と言うのは
厚顔無恥も甚だしい。言語道断だ。自分勝手が極まっている。
「裏切られた」が意味するところは、
「俺の理想に付き合え」ということだ。
「俺が愛しているのだから良い所だけを見せろ」ということだ。

馬鹿め。
人間という生き物をなんだと思っているのか。
そう言う自分は立派で価値ある大丈夫とでも勘違いしているのか。

 


僕は思う。愛するというのは
「私があなたを愛するのは、あなたがあなただからです」と
そう断言できるものであると。

人は間違いを犯す。迷う。愚かで醜い。
大前提だ。

だから、どんな過ちをしたとて、
"その人がその人である"ことに変わりはない。
本質は一切変わっていない。
最初から、そうやって惑う人間だったのだ。
魂だか何だかは知らないが、中心の所は不動なのだ。
悪い処を全部ひっくるめて、その人である訳だ。


腐った部分もひっくるめて、その人を好きでいること。
これが「愛している」ということだ。

 


相手の悪い面が知れた時こそ、愛が試される瞬間だと思う。

果たして受け入れられるか?
理解できるか?
助けてやれるか?

肝心要はそこだろう。


相手の感情や背景を理解し、共に悩み、励まし、手を取り、助け、
清濁併せて一緒に歩いてやる。心の平安を願い、安逸を望む。

これが愛するということだ。


理想を押し付け、清く正しく歩かせることではない。
美食を与え、愛でて、おだてることでは決してない。

利己的な自己満足がしたいなら愛玩動物で我慢しろ。
他人を巻き込むな。

 

 

愛は形にすることができない。これは苦しいことだ。
愛しくて思い煩うほどに、
「どれだけ愛しているかを形にできたら良いのに」と
苛立ちを覚えずには居られない。


愛の大きさを証明できるのは、
如何なる汚れであろうとも真に受け入れて見せた時だけだ。

受け入れたモノが醜ければ醜い程
大きな大きな愛を示したと言えるだろう。

なんのために命を使い潰すか

生きることは苦痛だ。それは間違いない。
釈迦だってそう説いている。

人間関係は上手くいかないし
老いて醜くなるし
病気は体を不自由にするし
どこへ行っても上下関係があるし
欲しいものは手に入らないし
生活は豊かにならないし
コンプレックスを馬鹿にされて虐められるし
自分の無力や無能を思い知らされるし
いつかは必ず死んでしまう

誰だってそうだ。ほとんどの人が同じだ。
みんな苦しい。生きるのは辛いことだ。
苦しいのは普通のことだ。

そこで思い悩むと誰かが言う、
「みんな頑張ってるから耐えろ」と。

思考停止の馬鹿だ。


人は、ひどい拷問を受け続ければ、殺してくれと懇願する。
苦痛は死を凌駕するわけだ。

これはシナプスが受け取る刺激の多寡の問題ではない。
痛みや苦しみを通じて、どう思うかという問題だ。
苦痛が人に、死を望ませるという話だ。


苦痛に耐えるには理由が要る。

「苦しくても生きていたい」

そう思える理由が要る。
当然のことだ。当たり前のことだ。
言うまでもない。聞くまでもない。考えるまでもない。

だけど誰かが言う、
「みんな頑張ってるから耐えろ」と。

この『みんな』とは、『不特定多数』ではなく『俺』を意味している。
「俺は頑張ってるから耐えろ」と言っている。自覚もなく。
こんなに頭の悪いことがあるだろうか。

もしくは
「苦しくても生きるのが当たり前だから、耐えて当然だ」と言っている。
洗脳されきっているんだろう。
思考停止。


苦痛の中で生きるためには理由が要る。

僕の場合は、現状を維持する誘因を、苦痛が上回ったので働くことを止めた。
社会に出て10年くらいしか経ってないけど、
「なんのために、こんな苦しい思いをしてまで生きなきゃならないんだ」
そう思って足を止めた。
必死に走る理由がなかった。

死にたい訳ではない。
けれど、苦痛に塗れ生きるほど、生にしがみつく気持ちにもなれない。

今は『苦痛を減らす方法』を模索する一方で、
『なんのために命を使い潰すか』を考え続けている。

僕だって死ぬことは怖いので。

日本人は馬鹿だという話。

日本人は馬鹿だ。

思考停止が過ぎる。

しかもそれを「真面目」とか抜かして肯定までしている。

 

自然と調和してきたからだか、封建制度が染みついているのか、

どういう経緯だかは知らないが、

日本人は「耐える」ことを過剰に称賛している。

 

言うまでもないが、忍耐は大切だ。

何事だって、継続せずに放り出せば何にもならないし、

誰も自重しなくなれば秩序も何も有ったもんじゃない。

 

だけど、日本人は「耐える」ことを過度に重視している。その結果、

「甘えるな」とか「お前も苦労しろ」とか、そんなことばかり考えている。

「あいつは我慢が足りない」とか、「努力が足りない」とかを簡単に言う。

 

では、「耐える」ことをあまりに美化した結果、どうなったか?

 

無給の時間外労働は当然だし、

上役から人格を否定されるのは当然、

みんなが残業しているのに先に帰れば許されない。

サービス業は客の身勝手を受け入れないといけない。

好きなことをして金を稼げば妬まれ疎まれ非難される。

 

それから決まってこう言うんだ。
「世の中は理不尽なものだ」と。
「仕事なんだから我慢しろ」と。

 

こんなものが当たり前だと、世の中はそんなものだと言う。

冗談じゃない。

分かっているのか?これは決して『自然の摂理』などではない。

現代日本社会が、今、そうやって在る、というだけなのだ。

所与のものなどではない。

移ろいゆく『状況』でしかない。

海外を見ろ。全て当たり前に見られることか?違うだろう。

 

しばしば思うのが、 この国は未だ文化的に未熟だということだ。

確かに高度経済成長期において、Japan as Number Oneと

称されるほどにはなったし、日本の歴史は天地開闢の時代からある。

最古の王族が未だ王として居るのは、この小さな島国だ。

 

だからといって、一番古いことが、イコール、一番凄いこと、にはならない。

集めた富の大きさが、即ち文化の高さを示す訳ではない。

 

日本人は、医療・プラント・精密機器・インフラ・とにかく

色々な方面で八面六臂の活躍をして、世界の発展に貢献してきた。

先人たちは世界に誇れる素晴らしい人々だ。

 

だけど、あの時代、暴力は当然で、女性蔑視は激しいし、

倫理なんてものは薄く、パワハラもセクハラもなかった。

 

上に従えと言われる。

我慢しろ言われる。

桃栗三年柿八年だ言われる。

もちろんカラスは白い。

異常なまでに上下関係が強固で、実に原始的、野性的な社会だ。

要するに、未熟な文化だ。

だけど大量生産、大量消費による経済発展が全てを肯定した。

 

日本人的な気質、上様からのお言いつけを守り従い、

一所懸命に耐えることで、莫大な富を得ることができた。

つまり「耐える」ことの価値が極めて高かった。

某社がCMで喧伝したかの如く、24時間働けば報われていた。

 

オイルショックの後だって、それは変わらなかった。

政府の愚策によって好景気は維持されたので、

バブルがはじけるまで、ずっと続いた。

 

ほんの20年前までの話だ。

 

 

さあ、今はどうだ?

耐えれば富がもたらされるのか?

大企業でさえ、事業継続することが難しくなっているのに?

決算を粉飾し、検品を誤魔化し、カルテルや談合をしないと

立ち行かなくなるほどなのに?

 

そもそも、日本を代表するような企業を見れば、

如何に日本の文化が未熟なのか、よく分かる。

内部告発者を虐めて、派閥を作って争い、

賄賂を受け取っては平然としている。

実に人間という、動物らしい振る舞いである。

とてもとても自然なことなので「そういうものだ」と言われれば、首肯してしまう。

 

が、しかし、これが文化的に未発達だと言わずして、何だと言うのか。

恐ろしく拙い。低俗で卑しい。

なのに文化人を気取っている。思考停止の為せる業だ。

 

資本主義だろうが、人間の本質がなんだろうが関係ない。

文化のレベルが低いんだ。どうしてそう思わない?

うつ病だの自殺者だのニートだのが多すぎるのに、なぜ思い当たらない。

「甘え」だとか言って、簡単に切り捨てているからだろう。

自分とは違う落伍者で、遠い存在だと思い込んでいるからだろう。

 

 

日本の社会的な文化は、過去の高度経済成長期で莫大な富をもたらした。

だからといって、当時の価値観が正しいわけではない。

 

「頑張る」ことは

折り目正しく真面目に先達の言葉に従って「耐える」ことじゃない。

自分の頭で何が正しいか、どうすれば良いか考えて「動く」ことなんだ。

ある程度動いてダメなら次に向かって動けば良い。いつまでも耐えなくて良い。

「甘え」だの「逃げ癖」だのは、他人にとやかく言われる筋合いなんてない。

 

だというのに年寄りたちは20年前の、もっと言えば60年も前の

古い価値観でもって、「常識」を語って押し付けるのを、いい加減にやめろ。

 

古き良き昭和の時代は、楽しかっただろう。

肯定したくなるだろう。気持ちはとても理解できる。

規範もなく、模範もなく、みんなが欠乏していて

そこから抜け出そうと夢を描き、語り合い、希望を持っていた。

実際に大きな富を得ることができた。

 

だからと言って、今の社会にその価値観を「常識」として持ち込むな。

社会は常に、若い世代が、自ら世界を住みよくしていく為に、

自分自身の力でもって切り開いていくものなのだ。

半世紀以上も生きながら、そんなことも分からず、

自分たちの観点でしか物事を考えられない様な年寄ばかりでは、

彼らの参政権は剥奪すべきだ、とまで考えてしまう。


今の若い世代には、規範があり、模範がある。

換言すると、「こうあるべき」という最低限度のモデルがある。

この「~べき」というのは、モチベーションを削ぐことに大いに役立つ。

何故か?

一部でもボーダーラインに達していなければ、すぐに非難されるからだ。

そして、機械的に規範通りになるように求められる。

①規範通りに成れるように、
機械的に自分を殺して、
③決められたやり方を守れ

こんな馬鹿げた話を子供に平然と強いる親たちは一体何を考えているのか。

いや、考えたことがないのだ。そうすることが『常識』だから。

人間は工場生産されるような機械じゃない。

生身の、凸凹した、長所も短所も、向きも不向きもある、生き物だ。

だけど多くの人がそれに気付かず、社会の思想に縛られて
「~じゃないといけない」とか
「常識は~だから」とか
「みんなが~をしているから」とか考えてしまう。
苦しくなって、心を病んでいく。生き辛くなっている。


不変の常識なんて存在しない。

今まさに、女性の活躍が望まれているように、

色々なハラスメントが咎められ始めているように、

LGBTなどの性的少数者が声を上げられるようになったように、

たくさんのライフスタイルが認められ、自分の時間を生きられるように、

社会はどんどん様子を変えていく。

 

日本人の大好きな『常識』という言葉の意味は、

「今の時代に於いて最も共有されることの多い価値観・考え方」でしかない。

しかも、その殆どが年寄りの古臭い決めつけばかりなのだ。

だから、若者たちは今が生き辛いなら切り拓いていいんだ。

自分たちがこれから生きられるように、社会の『常識』を。

記念貨幣の話

今朝の日本経済新聞を読んでいたら、眠たいことが書いてあった。

部分だけ抜き出して書くと
「記念貨幣を出しても買い手が高齢化しているから子供向けに100円銅貨も出す」らしい。

……なんか違わないか?


クラシックコンサートやら美術展やらで人が集まらない、という話でよく耳にするのが

「観て(聴いて)もらえば良さが分かる」というコメント。

そりゃ、あんたにとってイイモノだろうけど、万人に当てはめようとするなと言いたくなる。

 

どっかの田舎で「地元の主婦の愚痴を投稿し合って冊子にして、共感し合う」みたいな話が載っていた。

そこでも「高齢化が進んでいるから若い子に参加してほしい」と書いてあった。
残念ながら、若い子にはSNSがあるので……。

 

世の中は常に変化し続けている。昨今の流れなんて、それはもう激流そのものだ。

 

そして需要はどんどん変わる。需要に合わないものは、

自己満足に浸っている内に次々に淘汰されて消滅していく。

 

高尚だろうが歴史があろうが、需要が無ければ塵に等しい。

風に吹かれて消えるだけだ。阿波踊りだろうが大阪文楽だろうが。

 

品質の高さを過剰に追求した日本製品

どんどん市場から消える姿を見てきただろうにまだそれが分からないのか、と思ってしまう。

 

文学もそう。三島由紀夫なんかを読んでいるとマジぱねぇ、ガチモンスター、えぐい、とか思うけど、

情報処理で忙しい現代社会においては、(有用性はさておき)需要は小さいだろうなと思う。

クオリティの高さは需要に直結しないのだ。

 


翻って記念貨幣の話。
これも要するに、若い子の需要が無くなってるんだから金額を下げたって同じことだ。
しかも今や仮想通貨の時代である。
いっそビットコインを象った記念貨幣でも出してみてはどうか。

子供向けならジバニャンだ!(おっさん的発想)
――なんて言うと、伝統が云々で馬鹿げてるとか、年寄はそう言うんだろうな。

 

歳取って頭の固くなる人ばかりだけど、なんで自分が変わらずに、相手に変化を求めるのだろう。

大人と子供の関係も一緒。
子供のわがままを大人が受け入れずに、大人のわがままを子供に押し通す。

 

……最後に話が逸れてしまった。