なんのために命を使い潰すか

生きることは苦痛だ。それは間違いない。
釈迦だってそう説いている。

人間関係は上手くいかないし
老いて醜くなるし
病気は体を不自由にするし
どこへ行っても上下関係があるし
欲しいものは手に入らないし
生活は豊かにならないし
コンプレックスを馬鹿にされて虐められるし
自分の無力や無能を思い知らされるし
いつかは必ず死んでしまう

誰だってそうだ。ほとんどの人が同じだ。
みんな苦しい。生きるのは辛いことだ。
苦しいのは普通のことだ。

そこで思い悩むと誰かが言う、
「みんな頑張ってるから耐えろ」と。

思考停止の馬鹿だ。


人は、ひどい拷問を受け続ければ、殺してくれと懇願する。
苦痛は死を凌駕するわけだ。

これはシナプスが受け取る刺激の多寡の問題ではない。
痛みや苦しみを通じて、どう思うかという問題だ。
苦痛が人に、死を望ませるという話だ。


苦痛に耐えるには理由が要る。

「苦しくても生きていたい」

そう思える理由が要る。
当然のことだ。当たり前のことだ。
言うまでもない。聞くまでもない。考えるまでもない。

だけど誰かが言う、
「みんな頑張ってるから耐えろ」と。

この『みんな』とは、『不特定多数』ではなく『俺』を意味している。
「俺は頑張ってるから耐えろ」と言っている。自覚もなく。
こんなに頭の悪いことがあるだろうか。

もしくは
「苦しくても生きるのが当たり前だから、耐えて当然だ」と言っている。
洗脳されきっているんだろう。
思考停止。


苦痛の中で生きるためには理由が要る。

僕の場合は、現状を維持する誘因を、苦痛が上回ったので働くことを止めた。
社会に出て10年くらいしか経ってないけど、
「なんのために、こんな苦しい思いをしてまで生きなきゃならないんだ」
そう思って足を止めた。
必死に走る理由がなかった。

死にたい訳ではない。
けれど、苦痛に塗れ生きるほど、生にしがみつく気持ちにもなれない。

今は『苦痛を減らす方法』を模索する一方で、
『なんのために命を使い潰すか』を考え続けている。

僕だって死ぬことは怖いので。