人生の悩みを整理しようと思ったらバカ長くなった話

「上手く人付き合いが出来ないなあ」と、思い続けて20年。
対人不安を患った期間で言えば30年は経つのだが、
その原因を、ようやく具体的に言語化し、
筋道立てて説明できるようになったので書いてみる。

仔細を述べる前に、ひとまず原因だけ抜き出して言うと
『「自分の存在は恥だから、本当の自分を知られてはいけない」という思い込み』
これだ。

まあ、早い話が自己否定だ。

 


今までは漠然と
「他人が怖い」だとか「どう思われるか分からないから不安」だとか
「本当の自分を晒せない」だとか「どうして人の輪に入れないんだろう」とか
「変に思われたら」「馬鹿にされたら」「失敗したら」「笑われたら」etc.
不安な思考を散らしていただけだった。

いちおう断っておくが、対人不安を言い訳にして諦めたりはしなかった。
友達は殆ど居なかったが、登校拒否するでもなく
人付き合いから逃げる訳でもなく、就職を拒むわけでもなく、
いっぱしの、当たり前の、世間一般の普通の人として、
義務として、社会生活に馴染むように努めてきた。

「普通になりたい」
「頑張れば、いつか達成できる」
「苦しくても努力すれば、変われる」

そう思って生きてきた。

『今はダメでも頑張れば成功する』
『成功しないのは努力が足りないからだ』
これが一般論だろう。社会的な常識だろう。

でも、この考え方が通用しないことがある。
それは自己否定をしている時だ。


普通、人の成長というものは、足りない自分に何かを足していく行為だ。
自分自身を抹殺して一から作り上げる行為などでは、決してない。


「足りない自分が嫌だから、そこから抜け出したい」のなら
成長の機会だ。大いに努めれば良い。

だけど「自分自身が嫌だから、違う何者かになりたい」というのは
自殺の機会だ。絶対にやめた方が良い。

 


当たり前のことを言うが、人間は生き物だ。
工場で作られた機械ではない。
肉体も、容姿も、精神も、思考も、趣向も、能力も、
なにもかもがアンバランスで不格好で形の整わないものだ。
どんなに嫌で否定したって、それが自分自身だ。

可愛い女の子を見て「乱暴したい」と思わず考えてしまい、
自分を恥ずかしく感じたとしても、それが自分の持っている思考回路だ。

針で刺されたら痛い。
不細工なツラを見たら不快になる。
同性愛者を気持ち悪いと感じる。

全部同じだ。無意識で自然な反応だ。

「ああ、こんな反応をしてしまうなんて、自分はダメな奴だ」
そう思ったって、それが正常な"自分の反応"なんだ。

 


けれど僕は、それらを否定してきた。
自分の趣味も、思考も、容姿も、能力も、全部否定した。
小学生の頃か、もしかすると幼稚園の頃からそうだった。

活動的で、人当たりが良く、優しく、社交的で、面白くて、平等で、
頭が良く、明るく、眉目秀麗で、大人びていて落ち着きがあり、
知識が豊富で、はきはきとして、とにかく立派でなくてはならないと思っていた。

まさしく理想の人物像である。
理想通りであることを義務のように思っていて、
「理想通りの人間じゃない自分はダメな奴だ」と信じていた。
一介の小学生で"そのままの自分"ではいけなかった。

勿論、こんな理想は実現不可能だ。
でも、実現させなくてはならないと思っていた。
だったら、どうするか?
「ダメな自分を知られないように、大人しくしている」しかない。

結果、人と喋らない、消極的な子供になった。
チャレンジしたとき、必ず成功しなければならないのだから、当然だ。

みんなが談笑しているのを見て、自分はダメだと思う。
みんなが活発に運動しているのを見て、自分はダメだと思う。
仲間に入れない、話すことができない、怖いと、そう思い続けた。


僕は小・中学生の頃、一番背が高く、体格も丈夫で、容姿も悪くはなかった。
走れば一番早いし、歌だって得意だ。成績は普通だが苦手な科目もないし、
高校で文理判定をした時も、丁度半々だった。バランスは取れている。
センター試験も、全部8~9割だった。
家庭も裕福な方で、不足しているものは何もなかった。

でも、ダメだった。自分が恥ずかしくて仕方がなかった。

 


ところで、この『理想通りの人物像』を追っていたのは、
なにも自尊心がそうさせた訳ではなくて、
単純に、親の、大人の言うことを聞いていただけである。

ご存知の通り、大人はすぐに理想論を子供に語る。
「考えが甘い」とか「それでは世間で通用しない」とか
「明るく元気にしろ」とか、何かと子供に言って聞かせる訳だ。

言われて「うん」とは言わない程度に天邪鬼ではあったけれど、
「そうしなければならない」と強迫観念に駆られるくらいには
親の、大人の言うことに従順であった。
(たぶん「大人の言う通りにしないと恐ろしい目に遭う」と感じていたのだろう)


成長するにつれ、自分は"理想像"から一層遠ざかった。
本は読まないし、スポーツ万能ではないし、気は弱いし、成績優秀ではないし。
とにかく憂鬱だった。ひたすら目立たないようにしていた。
小学校5年生か6年生くらいの時には、クラスメイトに
うつ病なのかと思っていた」と言われた(当時は意味が分からなかった)

妹の影響で、マンガとかアニメに没頭していった。
いわゆるオタクである。
最近でこそクールジャパンだとか、市民権を得た様子だが
当時は、特に根暗でマニアックな趣味だ。
しかも僕の場合、どちらかと言えば萌え系(死語)が好きだったので
尚更、恥ずかしかった。

「無駄遣いしてはダメ」だと教えられていたので、
VHSだの専門書だのを買い漁ることもなく、淡々と放映されるアニメを見ていた。
だから、マンガの単行本を買うこともなかった。
(そもそも外出すること自体が怖かったのだが)

テレビゲームは子供たちの間で流行っていたので、買って遊ぶことが出来た。
学校から帰るなり延々とプレイしていた。
ただ今になって思うと、ゲームはそれほど好きではなかった。
現代で言えば、手持無沙汰な時にスマホゲーを楽しむのと同じ感覚だと思う。
なんとなく楽しいから、ゲームで時間を潰していただけだ。


高校生にもなれば、優秀な生徒ならゲームもあまりしない。
部活なり、恋愛なり、友情なり、有意義な時間の使い方をする。
でも、僕は相変わらず、オタク文化から離れられずに居た。
"まとも"じゃない自分を嫌って、自己否定が悪化した。

極めつけには、アニメのキャラクターを本気で好きになった。
心の底から愛してしまった。行くところまで行っていた。

それで完全に現実世界から離脱したかというと、そうではなかった。
物事は単純に進まなかった。
本気で二次元のキャラクターを好きになったことをキッカケにして、
むしろ現実へ回帰した。社会で求められる理想像へ向けて再出発した。

「誰かを心から好きになる」ことは同時に、
愛を求めることでもある。つまり「愛してほしい」と思い始めた訳だ。
でも、どれだけ虚構の存在を愛そうとも、何も返ってこない。
ただ独りで居るだけ。ケンカもできない。それが酷く悲しかった。

「誰かに愛してほしい」と思ったから、現実社会に溶け込もうとした。
「他人に受け入れてもらえる人間になろう」と思った。

つまり、"無意識の自己否定"に"意識的な自己否定"を加えた。

「今の自分はろくでもないから、普通の人に変わろう」と考えた。

普通の人はアニメを見ない。
普通の人はオシャレをする。
普通の人はスポーツをする。
普通の人は夢を持っている。
普通の人は……

何が正解かを、とにかく考え続けた。
自分の趣味や感情を非難しながら、普通へと修正した。
これを20年近く続けた。

自分のことを恥ずかしいと思っていた。
臆病な性格を、オタク趣味を、少ない人生経験を、
コミュニケーション能力を、運動神経を。

いわゆるコンプレックス。何もかも恥ずかしかった。

人格と、人生を否定していた。
人格を知られてはいけないと思っていた。
人生を知られてはいけないと思っていた。

もし知られたら、馬鹿にされ、否定され、非難され、攻撃され、
とても辛く酷い目に遭うと思っていた。

だから、全部覆い隠そうとした。
自分じゃない何者かになりたかった。


大学ではあまり友達が出来なかったけど、それなりに過ごせた。
就職もできた。会社の同期と遊びに出かけたりした。結婚もできた。

それで、実家の会社に入って、役職なんかにも付けてもらって――ある日

「あ、ダメなんだ」と思った。

対人上の不具合は、自分には直せないんだと思った。
だから辞めることにした。

それまでは「頑張れば何とかなる」と考え、メンタルクリニックに通ったりした。
「人とうまく付き合いない」とか「人が怖い」などと相談していた。
でも、色々あって限界に達した。

だって、社会人3年目とかじゃないんだ。
10年続けても、これなんだ。


今になって思えば、人が怖いのも、うまく付き合えないのも
当たり前のことだった。

考えてほしい。
「自分の本性を知られたら恐ろしいことになる」と
思いながら人と接する時、果たして平静を保てるだろうか。
常に綱渡りをしているような心境だ。
ただ隠すだけなら良いが、露見したら恐ろしいことになるのだ。
しかも、自分の本音を隠しつつ、"正しい反応"を考える必要がある。
これは並の緊張感ではない。


「誰だって人と話すときは緊張するものだ」と人は言う。

そりゃあそうだろう。多少の神経は使う。
失言があったら大変だ、と思うこともあるだろう。
でも、それで"恐怖"に駆られて、脇汗を流しながら喋るのか?
(そういう人は、僕と同じく対人恐怖症の人だ)


自分を装い、取り繕って本音隠したままでは、人と打ち解けることは難しい。
身を護ることばかりに必死で、視界が狭くなり、神経が擦り減っていく。

営業だとか、社交の場だとか、社内の人間関係だとか、全部怖かった。
なんとかしようと努めた。でも、いつも違和感や距離を感じていた。
取り繕ってるんだから、当然だった。

でも、もう、本音も、自分が思っていることも、自分の感情も、
何も分からなくなっていた。
自分は『正しい行動を選択する人』でしかなかった。

 


会社を休み始めてから、メンタルクリニックの担当が変わった。
最初にしたのは、自分の感情に気付くトレーニングからだ。

「合ってますか」とか「正しいですか」とか
「社会的にはこうだと思います」とか、
そんなことばかり言って、自分の主張が浮かばなかった。

 


……それから結構な時間が経ったのだけれど、
最近になって、ようやく対人恐怖症の原因を言語化して説明出来るようになった訳だ。

今は、自分の人格を否定せず、こういう人間なのだと
素直に受け入れることを心掛けている。敢えて遠ざけていたアニメなんかを観始めた。


だが、自己開示は相変わらず怖い。
否定されるイメージが残っていて、無意識の恐怖心は簡単には消えない。

暗所恐怖症も、高所恐怖症も、嘔吐恐怖症も、どんな恐怖症も無意識の感情から
発しているのだから理屈で詰めたって、どうにもならないのだ。

それに、これまで築いてきた人間関係は、自分を偽って築いたものが多いため
"ある程度"素直な自分として接するのに、多少の抵抗が残る。

(こういう人だろうな、と見当を付けられていそうだが) 


紆余曲折している間に、
人さまに胸を張って言えるような人生を過ごすことは
どうにも難しくなってしまった。
でも、あのまま自己否定に拘泥して欝々と生きていても
結局悲嘆に暮れながら死ぬ他なかったと思うので、
これはこれで、仕方がなかったとも思うわけです。


思い込みが消えたら、少しは人との交流を楽しめるようになるだろうか。
それはまだ、よく分からないし、人付き合いは好きではない。