記念貨幣の話

今朝の日本経済新聞を読んでいたら、眠たいことが書いてあった。

部分だけ抜き出して書くと
「記念貨幣を出しても買い手が高齢化しているから子供向けに100円銅貨も出す」らしい。

……なんか違わないか?


クラシックコンサートやら美術展やらで人が集まらない、という話でよく耳にするのが

「観て(聴いて)もらえば良さが分かる」というコメント。

そりゃ、あんたにとってイイモノだろうけど、万人に当てはめようとするなと言いたくなる。

 

どっかの田舎で「地元の主婦の愚痴を投稿し合って冊子にして、共感し合う」みたいな話が載っていた。

そこでも「高齢化が進んでいるから若い子に参加してほしい」と書いてあった。
残念ながら、若い子にはSNSがあるので……。

 

世の中は常に変化し続けている。昨今の流れなんて、それはもう激流そのものだ。

 

そして需要はどんどん変わる。需要に合わないものは、

自己満足に浸っている内に次々に淘汰されて消滅していく。

 

高尚だろうが歴史があろうが、需要が無ければ塵に等しい。

風に吹かれて消えるだけだ。阿波踊りだろうが大阪文楽だろうが。

 

品質の高さを過剰に追求した日本製品

どんどん市場から消える姿を見てきただろうにまだそれが分からないのか、と思ってしまう。

 

文学もそう。三島由紀夫なんかを読んでいるとマジぱねぇ、ガチモンスター、えぐい、とか思うけど、

情報処理で忙しい現代社会においては、(有用性はさておき)需要は小さいだろうなと思う。

クオリティの高さは需要に直結しないのだ。

 


翻って記念貨幣の話。
これも要するに、若い子の需要が無くなってるんだから金額を下げたって同じことだ。
しかも今や仮想通貨の時代である。
いっそビットコインを象った記念貨幣でも出してみてはどうか。

子供向けならジバニャンだ!(おっさん的発想)
――なんて言うと、伝統が云々で馬鹿げてるとか、年寄はそう言うんだろうな。

 

歳取って頭の固くなる人ばかりだけど、なんで自分が変わらずに、相手に変化を求めるのだろう。

大人と子供の関係も一緒。
子供のわがままを大人が受け入れずに、大人のわがままを子供に押し通す。

 

……最後に話が逸れてしまった。