日本人は馬鹿だという話。

日本人は馬鹿だ。

思考停止が過ぎる。

しかもそれを「真面目」とか抜かして肯定までしている。

 

自然と調和してきたからだか、封建制度が染みついているのか、

どういう経緯だかは知らないが、

日本人は「耐える」ことを過剰に称賛している。

 

言うまでもないが、忍耐は大切だ。

何事だって、継続せずに放り出せば何にもならないし、

誰も自重しなくなれば秩序も何も有ったもんじゃない。

 

だけど、日本人は「耐える」ことを過度に重視している。その結果、

「甘えるな」とか「お前も苦労しろ」とか、そんなことばかり考えている。

「あいつは我慢が足りない」とか、「努力が足りない」とかを簡単に言う。

 

では、「耐える」ことをあまりに美化した結果、どうなったか?

 

無給の時間外労働は当然だし、

上役から人格を否定されるのは当然、

みんなが残業しているのに先に帰れば許されない。

サービス業は客の身勝手を受け入れないといけない。

好きなことをして金を稼げば妬まれ疎まれ非難される。

 

それから決まってこう言うんだ。
「世の中は理不尽なものだ」と。
「仕事なんだから我慢しろ」と。

 

こんなものが当たり前だと、世の中はそんなものだと言う。

冗談じゃない。

分かっているのか?これは決して『自然の摂理』などではない。

現代日本社会が、今、そうやって在る、というだけなのだ。

所与のものなどではない。

移ろいゆく『状況』でしかない。

海外を見ろ。全て当たり前に見られることか?違うだろう。

 

しばしば思うのが、 この国は未だ文化的に未熟だということだ。

確かに高度経済成長期において、Japan as Number Oneと

称されるほどにはなったし、日本の歴史は天地開闢の時代からある。

最古の王族が未だ王として居るのは、この小さな島国だ。

 

だからといって、一番古いことが、イコール、一番凄いこと、にはならない。

集めた富の大きさが、即ち文化の高さを示す訳ではない。

 

日本人は、医療・プラント・精密機器・インフラ・とにかく

色々な方面で八面六臂の活躍をして、世界の発展に貢献してきた。

先人たちは世界に誇れる素晴らしい人々だ。

 

だけど、あの時代、暴力は当然で、女性蔑視は激しいし、

倫理なんてものは薄く、パワハラもセクハラもなかった。

 

上に従えと言われる。

我慢しろ言われる。

桃栗三年柿八年だ言われる。

もちろんカラスは白い。

異常なまでに上下関係が強固で、実に原始的、野性的な社会だ。

要するに、未熟な文化だ。

だけど大量生産、大量消費による経済発展が全てを肯定した。

 

日本人的な気質、上様からのお言いつけを守り従い、

一所懸命に耐えることで、莫大な富を得ることができた。

つまり「耐える」ことの価値が極めて高かった。

某社がCMで喧伝したかの如く、24時間働けば報われていた。

 

オイルショックの後だって、それは変わらなかった。

政府の愚策によって好景気は維持されたので、

バブルがはじけるまで、ずっと続いた。

 

ほんの20年前までの話だ。

 

 

さあ、今はどうだ?

耐えれば富がもたらされるのか?

大企業でさえ、事業継続することが難しくなっているのに?

決算を粉飾し、検品を誤魔化し、カルテルや談合をしないと

立ち行かなくなるほどなのに?

 

そもそも、日本を代表するような企業を見れば、

如何に日本の文化が未熟なのか、よく分かる。

内部告発者を虐めて、派閥を作って争い、

賄賂を受け取っては平然としている。

実に人間という、動物らしい振る舞いである。

とてもとても自然なことなので「そういうものだ」と言われれば、首肯してしまう。

 

が、しかし、これが文化的に未発達だと言わずして、何だと言うのか。

恐ろしく拙い。低俗で卑しい。

なのに文化人を気取っている。思考停止の為せる業だ。

 

資本主義だろうが、人間の本質がなんだろうが関係ない。

文化のレベルが低いんだ。どうしてそう思わない?

うつ病だの自殺者だのニートだのが多すぎるのに、なぜ思い当たらない。

「甘え」だとか言って、簡単に切り捨てているからだろう。

自分とは違う落伍者で、遠い存在だと思い込んでいるからだろう。

 

 

日本の社会的な文化は、過去の高度経済成長期で莫大な富をもたらした。

だからといって、当時の価値観が正しいわけではない。

 

「頑張る」ことは

折り目正しく真面目に先達の言葉に従って「耐える」ことじゃない。

自分の頭で何が正しいか、どうすれば良いか考えて「動く」ことなんだ。

ある程度動いてダメなら次に向かって動けば良い。いつまでも耐えなくて良い。

「甘え」だの「逃げ癖」だのは、他人にとやかく言われる筋合いなんてない。

 

だというのに年寄りたちは20年前の、もっと言えば60年も前の

古い価値観でもって、「常識」を語って押し付けるのを、いい加減にやめろ。

 

古き良き昭和の時代は、楽しかっただろう。

肯定したくなるだろう。気持ちはとても理解できる。

規範もなく、模範もなく、みんなが欠乏していて

そこから抜け出そうと夢を描き、語り合い、希望を持っていた。

実際に大きな富を得ることができた。

 

だからと言って、今の社会にその価値観を「常識」として持ち込むな。

社会は常に、若い世代が、自ら世界を住みよくしていく為に、

自分自身の力でもって切り開いていくものなのだ。

半世紀以上も生きながら、そんなことも分からず、

自分たちの観点でしか物事を考えられない様な年寄ばかりでは、

彼らの参政権は剥奪すべきだ、とまで考えてしまう。


今の若い世代には、規範があり、模範がある。

換言すると、「こうあるべき」という最低限度のモデルがある。

この「~べき」というのは、モチベーションを削ぐことに大いに役立つ。

何故か?

一部でもボーダーラインに達していなければ、すぐに非難されるからだ。

そして、機械的に規範通りになるように求められる。

①規範通りに成れるように、
機械的に自分を殺して、
③決められたやり方を守れ

こんな馬鹿げた話を子供に平然と強いる親たちは一体何を考えているのか。

いや、考えたことがないのだ。そうすることが『常識』だから。

人間は工場生産されるような機械じゃない。

生身の、凸凹した、長所も短所も、向きも不向きもある、生き物だ。

だけど多くの人がそれに気付かず、社会の思想に縛られて
「~じゃないといけない」とか
「常識は~だから」とか
「みんなが~をしているから」とか考えてしまう。
苦しくなって、心を病んでいく。生き辛くなっている。


不変の常識なんて存在しない。

今まさに、女性の活躍が望まれているように、

色々なハラスメントが咎められ始めているように、

LGBTなどの性的少数者が声を上げられるようになったように、

たくさんのライフスタイルが認められ、自分の時間を生きられるように、

社会はどんどん様子を変えていく。

 

日本人の大好きな『常識』という言葉の意味は、

「今の時代に於いて最も共有されることの多い価値観・考え方」でしかない。

しかも、その殆どが年寄りの古臭い決めつけばかりなのだ。

だから、若者たちは今が生き辛いなら切り拓いていいんだ。

自分たちがこれから生きられるように、社会の『常識』を。